微差必来

中3ー2

ミス:5

13:54

 

昨日の7/26(金)はプリントをやらなかった。

4月くらい?から欠かしていなかったが、途切れた。

昨年も4・5月と続いた月があったが、その時はとても頑張っていたのを覚えている。

 

今回の途切れ方は前回とはちがっている。

なぜだが、「そうなるよね。」という納得感があった。

7月はずっとプリントをやるのに重い腰をあげるような日が多かった。

 

6月の末に母が事故にあった。

これによってなんだか頭の中にモヤモヤとしたものが常になるような状態になった。

先のことへの不安によって、

今を見ようとする姿勢が無意識のうちに失われたようだった。

 

プリントにせよ、学習会の準備にしろ、事故の処理にせよ、

今日やれることをやりきっておくことが、今に目を向けることに繋がるだろうと感じた。

どんなことが起きようが、先のことが見えないことが起きようが、

そもそも先のことなんてわからない。

この不安をつくりだしているのでは紛れもない自分。

 

今回のプリントの途切れで大切なことを再認識できた。

絶妙時間

中2ー34

13:35

ミス:5

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[6月振り返り]

らくだメソッドは1日1枚やっていくと、

必ずできるように作られている。(と思っている。)

「いやいや出来ないことだってあるでしょう!」

と言いたくもなるが、

出来るか出来ないかを決めるのは、本人だ。

 

また、出来るか出来ないかを証明するにしても、

諦めたり、途中でやめるとどちらも証明することが出来ない。

自分が出来ないことを証明するためにもやり続ける必要があるからだ。

 

私自身、「え、このプリントクリアできるようになるの?」

って思うことは10回以上あった。

10枚以上のプリントをやることもあった。

しかし、出来るようになる。

 

 

私は職業柄、自分でプリント教材などを作ることもあるため、

必ず出来るようになるこの教材が不思議でしょうがない。

1枚のプリントを自分で調べてできるようになるのはそんなに難しくない。

「分かる。」ことは難しくはない。

しかし、らくだプリントには時間がある。

1枚のプリントで時間を設定し、

「できる。」の基準を作ることは簡単ではない。

この時間がとんでもなく絶妙でなければ、

出来ると出来ないの境をさまようことはないだろうから。

 

平井さんがどれだけの時間と実践を用いてこのプリントを作ったのか。

考えても想像できない・・・

いや、考えたくもない。笑

自決実現

中2ー32

15:49

ミス:3

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昨日は久しぶりに、プリントをやらず寝床についた。

しかし、Facebookを開いたところでらくだプリントを思い出した。

ボケーっとしながらもプリントを1枚やった。合格もした。

寝床から起きるのに時間はかからなかった。

 

なんで(そこまでして)プリントをやるのか?と問われたとして書いてみよう。

 

何かを成し遂げる(どちらかと言えば、「成し遂げてしまう」のがしっくりくるが・・・)には、毎日コツコツを積み上げることが大切。

これは分かっている。

何かを成し遂げるために、遠くに見える理想の自分(偶像?)を常に思い描き、胸を高鳴らせながら、モチベーションを保つのは大変だろう。

(少なくとも私は大変だったし、そんな理想の自分にはなれずじまいである。)

 

毎日行うことを決め、その決めたことを1日単位で丁寧にやっていく。

(一日単位というのは、その日にやることに集中するということ。次の日にやることは次の日に集中すればいい。)

将来の自分がどうなるかなんて誰もわからないのだから、とりあえず、1日ずつやってみればいい。

そしたらその人なりの何かが見えてくる。見えてくるものは人によっても違う。

 

話を戻すと、寝床についてまでプリントをやった理由は、

理由ではなく、

プリントをやると決めているからだろう。

 

惰性慣性

中2ー29

ミス:0

14:12

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惰性の対義語を調べたのですがありませんでした。

慣性という言葉がありますが、近いようで全く違う言葉です。

らくだのプリントを惰性ではなかなか続けれられないと思います。

惰性にはまだ、続けさせることを目的とするような力を自らで働かせているのような感じを受けるからです。

力を入れてはいるけど、その力の入れ具合を調節する必要がある感じです。

これは日によって違う自分と少しながらも戦わないといけないので辛いような気がします。

 

慣性は、速さや出来栄えという観念のないままに、

「スーーっと」進んでいる感じといいましょうか。

自分で押して進んでいるというより、流れに乗るような感じです。

他の力も借りながら、自分が流れていくような。

さらに言えば、自分が勝手にプリントをやっているのを眺めているような感じでもあります。

 

慣性と惰性は漢字一字ですが、全く違う感覚だと思っています。

 

おわり

自反自応

中2ー28

ミス:2

30:20

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30分近くプリントをやっているが、長いとは思わない。

プリントをすることで、喜怒哀楽の反応が減ってきている。

プリントをやっている時、自分に何か影響を与えて気持ちを変化させる人やモノはない。

反応しているのは自分だから。

 

おわり

自分之起

中2ー25

20:18

ミス:4

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[5月の振り返り]

5月はらくだをやらない日はなかった。

なぜだか、

「らくだを毎日、続けてやった。」

という表現でなく、

「やらない日はなかった。」

という表現がしっくりくる。

 

何だろう、

「もう1人の自分が、プリントを行なった。」

という感じだ。

私がプリントをやったというより、

プリントをやったという事が起こった。

というべきか。

何だろうか。自分でもよくわからないのだが、そんな感じだ。

頑張らず、意志にも振り回されず、(雨にも負けず・・・笑)

 

自然と、

「今日のプリントはこのタイミングだろうなぁ。」

という直感が働くようにもなっている気がする。

 

おわり

無考時間

中2−19

ミス0

14:17

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何も考えなくていい時間というのは贅沢だと思う。

それは考えている時間が多いともとも言えるが、私の場合はイイ時間だ。

何も考えないでよい時間が増えてくれば、

新たに問いや疑問が生まれ、

何かが始まるようになっているとも思う。

 

らくだメソッドも何も考えない時間の一つだろう。

 

何も考えないというのは、「らくだ以外のことを」という意味だ。

自分のことでいっぱいいっぱいであれば、

湧き出てくる問いや疑問もその程度だろう。

余裕がある時だと、プリントを1枚やるにしても色々なことに気づけるし、問える。

 

これは、寺子屋で過ごす時間にも言えることだろう。

私の場合は、

らくだをやり、ブログを仕上げ、談笑したり、時には読書もする。

 

忙しい時には、らくだをしたら帰るが、

忙しい中でのこのひと時がとても大切であったりする。

余裕のある時には、ふとアイディアが降ってきたり、

様々なご縁でグッと世界が広がったりする。

 

寺子屋は日常生活のアクセルとブレーキのような場所であり、

らくだもそんな教材だと思う。

 

おわり