自壁自作
高12
時間:計測ミス
ミス1
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プリントには目安時間のミスの数が決まっており、この基準をクリアすればそのプリントは合格となる。
この基準は誰かがこのプリントを見て、判断したり評価したりするものではなく、
プリントそのものに客観的な判断基準がある。
らくだプリントの奥深さは、
この判断基準以外が学習者裁量であると点だ。
もちろん、学習の手引きは存在する。この手引きをまずは型としてやってみた方が、プリント学習の意味合いや効果を引き出せると思っている。
(私自身が説明書を読まないたちなので、プリント学習での気づきや疑問を井上さんに聞くと手引きに書いてあることが多かった。笑)
プリントは1枚単位である。
何枚やってもいい、1枚を分けてもいい。
同じ種類をやり続けてもいい。
とにかくどう使ってもいい。
プリントを通して浮かびあがる自らの課題に取り組もうとすれば、自然にその人独自の教材の使用方法が現れてくると思っている。
自分で壁を作っては楽しくよじ登る。
根本点検
高9
12:35
ミス3
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問題を起こしたのか、起こされたのか、起きてしまったのか。
問題を問題をとして捉えているのは誰なのか。
なぜそれは問題なのか。
何が、誰がそれを問題だとしているのか。
そんなことを考えていくと、前提のズレが見えてくる。
そのズレは根本的でシンプルなものほど、
表出してくるときに大きな問題として捉えられやすくなる。
根本のズレのありかは一人で探すことは難しい。
だから他者が必要だし、学ぶには仲間が必要だろう。
根本のズレは点検を忘れるとすぐに見えなくなる。
アタマが発達してしまった私たちは、
自分の点検はいつも自分でしてあげる必要がある。
雑念無念
高8
14:51
ミス:4
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高校8のプリントは31問の目安時間は12分。
29問目までは時間を見ずにやれていたのですが、ふと時間を時計を見てしまいました。
12:10でした。
すると、アタマ的思考が発動し、
・30問目か31問目だけやって時計を止めようか?
・どちらの問題を解こうか?
・うわこれ雑念だ・・・!?
なんて考えているうちに時間は進み、集中状態から外れてしまいます。
(集中状態から外れるというよりは、意識の使い方を切り替えてしまったという感じでしょうか・・・)
結果的に14:51かかり、31問目はミスに終わります。
そして4問のミス。
今日合格しても、明日合格しても良いのに、
これで合格したい・・・!
という謎の意識が立ち現れました。
自分を邪魔するのはいつも自分で、
アタマ的な意識に持っていかれているのでしょう。
アタマで考えてはいるのだけども、
アタマは使い方次第です。
計贅生活
高校6
11:30
ミス:7
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こちらのブログにもあるように、人は様々な人と関わり合いながら生きているから、自分でどれだけ努力したってどうにもならない事がたくさんある。
旅行で考えてみれば、
電車が動かなくなったり、
楽しみにしていたお店が閉まっていたり、
急に雨が降ったり・・・
どれだけ準備したってどうにもならないことがある。
人は常に誰かの力の借りて生きているし、
僕らは地球に住んでいるから、雨に怒ったって仕方がない。笑
その中で、
「1日・1枚のプリントをやる。」
という自分の選んだ行動が、誰かから・何かからどれだけ影響を受けるだろうか?
(受けていると感じているだろうか?)
私の職場はコロナウイルスの影響で、生徒と関わる時間が減っている。
そのために時間があるのでプリント学習は、工夫をせずともやれている状態だ。
「やらなきゃ・・・」
というアタマの反応もなく、プリントが今日もできた。
朝起き、身嗜みを整え、掃除をし、誰かのために働き、ご飯を作り、ご飯を食べ、本を読み、ビールを学び、見たい映像作品を見れる。(後半は私の趣味・・・)
これらを自分のペースでやりつつ、誰かと共有できたりすれば、言葉もない。
この当たり前そうで、とてもつもなく贅沢な生活をするにも、適度な努力が必要で、
何かに追われるように生きていれば、この当たり前も楽しむ事ができないこともしばしば。
話が逸れたが、いろいろ影響を受けながら生きているとはいえ、生活の仕方を選んでいるのはやはり自分だ。
1日一枚のプリントをやることも生活の仕方次第では難しくないのではないだろうかと思う。
1日一枚のプリントが自然にできる生活こそが贅沢なう上に、その人の自然な生活なのかもしれない。
課題燻出
高校ー6 2/3(12~21)
ミス3
10:26
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プリントの合格基準は目安時間とミスの数だ。
これは一度に1枚のプリントを実施した際の基準である。
事実であるこの基準以外は自由であるはずなのに、
プリント学習を行わないという事実が多発する。笑
プリント学習を行う目的(課題)は学習者の数だけ存在する。
ただ、この目的がプリントを行う前に明確な人は少ない。
大人がなんでプリント学習を行うのか?と問いたくなる。
私もプリント学習を行う前はそうだった。
でも、やってみるほど課題が出てくる。
誰かや何かに課題に向き合わされるのは苦痛だが、自分のペースで向き合える課題は辛すぎない。言い換えれば、この学習では解決できる課題しか立ち現れない。
プリント学習を通して、自分にどんな癖があるか、考え方、生活習慣に至るまで、
プリントと向き合えば向き合うほど、幅広く問われる。
(なぜ問われるかと言えば、私は職業柄、「毎日少しずつ勉強をすると良い。」と伝えることが多いのだが、自分が数学のプリントを毎日できないからだ。笑 いつでも・どこでも自然に勉強できる事が最強なのではないかと考えている。詳細は以下の記事へ。)
プリント学習が辛い時ほど、できない時ほどそこには自分の盲点・死角に潜む思い込みが存在する。
どんなに自己観察をしようとしても、頭で考えているだけではなかなか見えてこない。自分の死角にあるものを見ようとするほど難しいことはないからだ。
そして、この思い込みはプリント学習の垣根を超えて日常生活の課題に直結していることも少なくない。(否、とても多い。笑)
これらの課題を燻り出すのに、このプリント教材をしようしているが、このプリント教材を通して気づいたことを学びに変える道案内をしてくれる人、ともに学ぶ仲間も大切な大切な要素だ。
自然状態 part2
高4
15:40
ミス:4
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前回、自然状態という記事を書いた。
ご飯食べるように、歩くように、勉強しようと意気込まなくても勉強しているようになれることのが、頑張るよりいいんじゃない?
って話をしている。
じゃあ私は勉強を息をするようにしているのか?
と自問すれば、まだ頑張ろうとしている。
何かのためでなきゃ勉強をしないし、
勉強した日は高揚感がある。
歩いても、呼吸をしても高揚感はないだろう。
新たな世界がどんどん見えてくることが当たり前で、自分をどんどん塗り替えていくことが当たり前になると楽に前に進める(んじゃないかと思っている。まだその感覚はない感じだ。)
ただ、勉強をしたくなるタイミングは増えたように思う。
頭でなく、カラダカ求めるタイミングは増えている(気がする。)
これも日々の自分の有り様だろう。