自然状態
高1
17:08
ミス:5
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「勉強は好きですか?」
と問うて、
好きが何%で、嫌いが何%になるだろう?
どんな割合が自然と言えるだろう?
(好きが50%で嫌いが50%? 100対0?)
どこの誰にどんな調査をするかによって結果は左右されるだろうし、
勉強という言葉に対しての意味づけが皆違う。
アンケートにするならこの内容に近い選び抜かれた100の質問を用意する必要がありそうだ。(脱線した。)
ざっくりとした何らかの調査を日本でしたとしよう。
「好き」が50%を上回ると皆は予想するだろうか?
何となく、、、嫌いは人が多そうな気はしないだろうか?
学ぶことは日常生活に溢れている。
机に向かわなくたって、生活していれば色んな経験があって、最適そうな選択を毎日して生きていること自体が学んでいると言ってもいい。
でも、「勉強」って言葉になると急に何だか、いやーなイメージがへばりついてやしないだろうか。
何でだろう。
勉強そのものじゃなくて、その環境や方法、社会における勉強の立ち位置を全て取っ払ったら、
ご飯食べるみたいに、歩くみたいに勉強ってできないかな?って考えているわけです。
勉強が大変なことで、努力の代表格にいなければ。
勉強ってできるんじゃないかって。
(この状態を、「自然状態」と勝手に呼んでいます。)
自然に勉強を、「勉強しよう!」って思わなくてもできるようになれる事が、
一番最強なんじゃないかって思う。
勉強ができるようにはどうしたら良いだろう?ってスタートせずに、
勉強が特別じゃないもので、生活の一部ような状態(自然状態)になるにはどうしたらいいだろう?
ってスタートしてみてもいいかもしれない。
不安今探
中3-49
ミス3
20:28
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たまに感じる私にとっての、未来への何となくの不安は、
ほとんどの場合がこの今に対する不安だ。
この今に対する不安というのは、
この瞬間の自分の行動を自在に動かせていないという不安であることが多い。
毎日プリントをするという言葉にすれば実現可能なことが、
実現できていないことがとても奥底で不安なのだろう。
今できていないことが明日できるわけがない。
それによる不安。
何となく不安なら今日やれていないことを探そう。
可変不変
自分のカラダや環境は日々変化していく。
今の学習の仕方ではプリントも合格すれば次に進む。
自分もコンディションも、プリントも違う毎日の中で、プリントを1日1枚行うという前提がある。
私は今まで必勝法というか、高確率でプリントをやれる方法や法則のようなものを見つけようとしていた。
それを見つけたと思っては手放して、見つけたと思ってはなんか違って、、、
と繰り返している感じがした。
私自身もプリントも日々変化していくからそれをみつようとしたってない。
ただ試行錯誤した分だけ、引き出しは増やせると思う。
引き出しを開け閉めして、時には開け忘れをしながらプリントをやっていきたい。
無問無学
中3-47
ミス:0
13:32
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11月から12月にかけて寺子屋に足を運ばず(べず)、
プリントを家で行う日々が続き、2ヶ月ほど寺子屋でプリントについてのお話をしなかったように思う。
今日は簡単にだが、プリントについての話ができた。
現在、中3-47まできており、中学の教材はあと10枚を切っていた。
それに気付けたのは、隣の塾生の方が、
「中3はあと何枚ですか?」
と声をかけてくれたからだ。
中学の教材は何枚だろうか?と考えたこともなかったし、終わらせようとも思ったこともなかった。
プリントを行い、自分と向き合い、問いを作り出しては、寺子屋で塾生や井上さんと対話を重ねることがらくだプリントには重要なのだと再度実感した。
心機継続
中3-42
ミス:3
14:45
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2学期を終えた。
人生で6回目の2学期だ。
これまでの2学期は毎回、息切れしていた。
今回はゆったりと疲労を感じながら2学期を終えた。
低空飛行で安定して飛んだ感じだ。
今ままでにないほど、部活動に時間をかけた。
それでも大きくバランスを狂わさず終えられたのは、
遠いところからでも、どこかで自分を見つめる時間をプリント学習を通して行ってきたからだろう。
プリントは毎日やっていない。
しかし、冬休みは全部やらなきゃ・・・とか、新年から心機一転する気もない。
毎日のプリントを行える生活を送ることに意識を向けたいと思っている。
12月はほとんど寺子屋に来れなかった。
1月に予定した日に来れるようにする。
というより、
自然と足を運べるような生活をする。
ことなのだろうと思う。
喪失生進
中3-38
ミス:1
8:56
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丸つけという作業
丸付けという作業は、さっきまでの自分を書き換える作業のように思う。
正解した問題には丸を付ける。
丸を付けるということは、
「とりあえずはこの問題に対しての考え方は合っていた。」
という確認だと認識している。
(とりあえずというのも大切)
間違えた問題があれば、チェックをつけるだろう。
(〇との違いに判断がつけばチェックのカタチは何でもOK)
問題を間違えた時が大切で、
間違えたままにすることもできるが、何も手を付けなければ同じミスをすることが多い。
問題をみて見ぬふりをすれば、先延ばしにはできても解決はしない。
間違えをそのままにしてしまう心理には色々あるだろうが、
一つは問題をアタマで本来の負荷より遥かに大きく負荷を見積もってしまっていることだろう。
問題の解決に見通しがつかないのは不安だ。面倒だとも思う。
しかし、とりあえずは問題と向き合ってみて全体像をとらえようとすれば、アタマで広げ想像したほどの問題でないこともあるかもしれない。
二つ目は、間違えた問題をなおすことが今までの自分を否定する感覚に近いことだ。
千葉雅也さんの著書である「勉強の哲学」では、
「勉強とは自己破壊である。」と表現されている。
間違えた問題(今までの自分の感覚)を否定して書き換える。(自己を喪失する。)
無意識下での恐怖がミスをなおすわずらわしさにつながっているかもしれない。
そういった意味ではらくだプリントは、自分のペースで自己を喪失させられるツールかもしれない。
ミスと向き合うとは、自分と向きあうことにもなる。
いつもいつも、自分と向き合えるわけでもない。
喪失だけでなく、自分のペースで少しずつ前に進んでいける教材であると感じている。
淡々粛々
中3-35
ミス:2
12:32
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淡々と粛々とプリントをやらない日が増えている。
まさかこんなにやらない日が増える月が来るとは思わなかった。笑
忙しいのもある。
プリントをやるには精神的・物理的な余裕がいる。
しかしながら、物理的な余裕はなくとも、物理的にプリントに取り組む時間はあるのだ。
プリントをやらないに到る要素は色々とあるが、プリントをやらないと決めているのは自分だ。
淡々と粛々とペースを取り戻すしかないだろう。
また少しずつ自分に問うていこう。