計贅生活

高校6

 11:30

ミス:7

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240rakuda.hatenablog.com

こちらのブログにもあるように、人は様々な人と関わり合いながら生きているから、自分でどれだけ努力したってどうにもならない事がたくさんある。

旅行で考えてみれば、

電車が動かなくなったり、

楽しみにしていたお店が閉まっていたり、

急に雨が降ったり・・・

どれだけ準備したってどうにもならないことがある。

人は常に誰かの力の借りて生きているし、

僕らは地球に住んでいるから、雨に怒ったって仕方がない。笑

 

その中で、

「1日・1枚のプリントをやる。」

という自分の選んだ行動が、誰かから・何かからどれだけ影響を受けるだろうか?

(受けていると感じているだろうか?)

 

私の職場はコロナウイルスの影響で、生徒と関わる時間が減っている。

そのために時間があるのでプリント学習は、工夫をせずともやれている状態だ。

「やらなきゃ・・・」

というアタマの反応もなく、プリントが今日もできた。

朝起き、身嗜みを整え、掃除をし、誰かのために働き、ご飯を作り、ご飯を食べ、本を読み、ビールを学び、見たい映像作品を見れる。(後半は私の趣味・・・)

これらを自分のペースでやりつつ、誰かと共有できたりすれば、言葉もない。

この当たり前そうで、とてもつもなく贅沢な生活をするにも、適度な努力が必要で、

何かに追われるように生きていれば、この当たり前も楽しむ事ができないこともしばしば。

 

話が逸れたが、いろいろ影響を受けながら生きているとはいえ、生活の仕方を選んでいるのはやはり自分だ。

1日一枚のプリントをやることも生活の仕方次第では難しくないのではないだろうかと思う。

1日一枚のプリントが自然にできる生活こそが贅沢なう上に、その人の自然な生活なのかもしれない。

課題燻出

高校ー6 2/3(12~21)

ミス3

10:26

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プリントの合格基準は目安時間とミスの数だ。

これは一度に1枚のプリントを実施した際の基準である。

事実であるこの基準以外は自由であるはずなのに、

プリント学習を行わないという事実が多発する。笑

 

プリント学習を行う目的(課題)は学習者の数だけ存在する。

ただ、この目的がプリントを行う前に明確な人は少ない。

大人がなんでプリント学習を行うのか?と問いたくなる。

私もプリント学習を行う前はそうだった。

でも、やってみるほど課題が出てくる。

誰かや何かに課題に向き合わされるのは苦痛だが、自分のペースで向き合える課題は辛すぎない。言い換えれば、この学習では解決できる課題しか立ち現れない。

プリント学習を通して、自分にどんな癖があるか、考え方、生活習慣に至るまで、

プリントと向き合えば向き合うほど、幅広く問われる。

(なぜ問われるかと言えば、私は職業柄、「毎日少しずつ勉強をすると良い。」と伝えることが多いのだが、自分が数学のプリントを毎日できないからだ。笑 いつでも・どこでも自然に勉強できる事が最強なのではないかと考えている。詳細は以下の記事へ。)

240rakuda.hatenablog.com

プリント学習が辛い時ほど、できない時ほどそこには自分の盲点・死角に潜む思い込みが存在する。

どんなに自己観察をしようとしても、頭で考えているだけではなかなか見えてこない。自分の死角にあるものを見ようとするほど難しいことはないからだ。

そして、この思い込みはプリント学習の垣根を超えて日常生活の課題に直結していることも少なくない。(否、とても多い。笑) 

これらの課題を燻り出すのに、このプリント教材をしようしているが、このプリント教材を通して気づいたことを学びに変える道案内をしてくれる人、ともに学ぶ仲間も大切な大切な要素だ。

自然状態 part2

高4

15:40

ミス:4

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自然状態 - 240rakuda

前回、自然状態という記事を書いた。

ご飯食べるように、歩くように、勉強しようと意気込まなくても勉強しているようになれることのが、頑張るよりいいんじゃない?

って話をしている。

 

じゃあ私は勉強を息をするようにしているのか?

と自問すれば、まだ頑張ろうとしている。

何かのためでなきゃ勉強をしないし、

勉強した日は高揚感がある。

歩いても、呼吸をしても高揚感はないだろう。

新たな世界がどんどん見えてくることが当たり前で、自分をどんどん塗り替えていくことが当たり前になると楽に前に進める(んじゃないかと思っている。まだその感覚はない感じだ。)

ただ、勉強をしたくなるタイミングは増えたように思う。

頭でなく、カラダカ求めるタイミングは増えている(気がする。)

これも日々の自分の有り様だろう。

自然状態

高1

17:08

ミス:5

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「勉強は好きですか?」

と問うて、

好きが何%で、嫌いが何%になるだろう?

どんな割合が自然と言えるだろう?

(好きが50%で嫌いが50%? 100対0?)

 

どこの誰にどんな調査をするかによって結果は左右されるだろうし、

勉強という言葉に対しての意味づけが皆違う。

アンケートにするならこの内容に近い選び抜かれた100の質問を用意する必要がありそうだ。(脱線した。)

ざっくりとした何らかの調査を日本でしたとしよう。

「好き」が50%を上回ると皆は予想するだろうか?

何となく、、、嫌いは人が多そうな気はしないだろうか?

 

学ぶことは日常生活に溢れている。

机に向かわなくたって、生活していれば色んな経験があって、最適そうな選択を毎日して生きていること自体が学んでいると言ってもいい。

 

でも、「勉強」って言葉になると急に何だか、いやーなイメージがへばりついてやしないだろうか。

何でだろう。

勉強そのものじゃなくて、その環境や方法、社会における勉強の立ち位置を全て取っ払ったら、

ご飯食べるみたいに、歩くみたいに勉強ってできないかな?って考えているわけです。

勉強が大変なことで、努力の代表格にいなければ。

勉強ってできるんじゃないかって。

(この状態を、「自然状態」と勝手に呼んでいます。)

自然に勉強を、「勉強しよう!」って思わなくてもできるようになれる事が、

一番最強なんじゃないかって思う。

 

勉強ができるようにはどうしたら良いだろう?ってスタートせずに、

勉強が特別じゃないもので、生活の一部ような状態(自然状態)になるにはどうしたらいいだろう?

ってスタートしてみてもいいかもしれない。

不安今探

中3-49

ミス3

20:28

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たまに感じる私にとっての、未来への何となくの不安は、

ほとんどの場合がこの今に対する不安だ。

この今に対する不安というのは、

この瞬間の自分の行動を自在に動かせていないという不安であることが多い。

毎日プリントをするという言葉にすれば実現可能なことが、

実現できていないことがとても奥底で不安なのだろう。

今できていないことが明日できるわけがない。

それによる不安。

何となく不安なら今日やれていないことを探そう。

可変不変

自分のカラダや環境は日々変化していく。

今の学習の仕方ではプリントも合格すれば次に進む。

自分もコンディションも、プリントも違う毎日の中で、プリントを1日1枚行うという前提がある。

私は今まで必勝法というか、高確率でプリントをやれる方法や法則のようなものを見つけようとしていた。

それを見つけたと思っては手放して、見つけたと思ってはなんか違って、、、

と繰り返している感じがした。

私自身もプリントも日々変化していくからそれをみつようとしたってない。

ただ試行錯誤した分だけ、引き出しは増やせると思う。

引き出しを開け閉めして、時には開け忘れをしながらプリントをやっていきたい。

無問無学

中3-47

ミス:0

13:32

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11月から12月にかけて寺子屋に足を運ばず(べず)、

プリントを家で行う日々が続き、2ヶ月ほど寺子屋でプリントについてのお話をしなかったように思う。

今日は簡単にだが、プリントについての話ができた。

現在、中3-47まできており、中学の教材はあと10枚を切っていた。

それに気付けたのは、隣の塾生の方が、

「中3はあと何枚ですか?」

と声をかけてくれたからだ。

中学の教材は何枚だろうか?と考えたこともなかったし、終わらせようとも思ったこともなかった。

プリントを行い、自分と向き合い、問いを作り出しては、寺子屋で塾生や井上さんと対話を重ねることがらくだプリントには重要なのだと再度実感した。